「真実はたったひとつ」という人もいますが、私としては違和感を覚えるところです。
事実はたったひとつですが、真実は人の数ほど存在するというほうが、何かとしっくりすると思うのですが……。
例えば、あなたが関西人だとして、東京へ出かけた際に、定食屋さんで卵焼きをいただくとします。
「はい、どうぞ、卵焼きです」
目の前に出された卵焼きは、茶色の焦げ目がついた甘辛味の卵焼き。ひと口ほおばり、とっさに「これは卵焼きではない!」というあなた。「いいえ、こちらが卵焼きです」という店員さん。
この場合、定食屋が提供したものが卵焼きであることは事実ですし、店員さんの「こちらが卵焼きです」という言葉は真実を語っているといえます。その一方「これは卵焼きではない!」と言った関西系のあなたも、同じく真実を語っています。関西の人にとって「卵焼き=だし巻き」であって、東京の定食屋で出された甘辛の卵焼きは、あなたにとっての卵焼きではなかったわけです。
卵焼きの存在は、事実としては成り立つけれども、真実としては、二通りの見方が成り立つわけですね。
これと同じように、この世の出来事も、当事者、第三者という立場の違いだけに限らず、ひとりひとりの受け止め方(解釈)によって、その人なりの真実が存在してしまうものだといえます。
ひとつの事実に対し、好意的発想で解釈するか、敵意(悪意)で臨むのか、その積み重ねで生じる人生の幸福度はどれほどのものになるのか、と想像すると、同じこの世を生きるのであれば、より幸福を感じて生きていきたいと望まずにはいられません。
甘辛い卵焼きも、しょっぱいだし巻きも、どちらも知っていて、どちらも美味しいことを分かっていれば、定食屋さんでの言い合いは起きなかったでしょう。また、たとえ知らなかったとしても、この世の中は自分の認知し得ないことのほうが多く、人それぞれに真実が存在するのもだと思えば、少なくとも即座にはねのけることはせず、すべてを価値ある大切なものとして受け止めることができるでしょう。
存在しているものすべては、誰かにとっての真実であり、意味があるものだと感じます。
Comments